乙女たちの戦争体験

1945年の終戦から63年。終戦の年に生まれた子どもは63歳、当時20歳であった人はもう83歳である。ある資料によると、戦後生まれは総人口の74・1パーセント(2006年現在)であるという。とすると戦前生まれは約26パーセント。が、そのうちいわゆる「戦争体験」を覚えている人ははたしてどれくらいいるだろうか。…戦争を知らない世代の増加によって、年々「戦争は遠くなりにけり」である。しかし、平和をつくっていくためには「戦争体験」を風化させずに語り継いでいく必要がある。
去るから29日までの1か月間、八重山平和祈念館で「戦争と子どもたち展」が開かれた。当時の子どもたちの暮らしを通して戦争の事実を示し、併せて平和学習に取り組む現代の子どもたちの様子を紹介していた。
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戦争を振り返って、人は「あの時代は、あの頃は…」と言う。当時、人々は時代に翻弄され戦争への流れを止めることができなかった。最初のうち、戦争にむかって突き進む国に危機感を覚えていた人は少なくなかっただろうが、気がつくと、「非国民」のレッテル貼りが横行する状況のただ中。こうなればもう国に抗議するなどほとんど不可能である。
終戦から63年。現在という時代は、どこにいるのだろう。人々は戦争についてどう考えているのだろうか。今の状況のなかに戦争への兆しはあるのか…。
ふたたびあの悲しみ、苦しみを繰り返さないためにも、「戦争体験」を何度も何度も検証し次代に伝え、さらに現在の状況を注視していかなければならないと思う。なかでも、私たちのような普通の人、一般人の意識の総体が時代をつくっているという認識を新たにしたい。
ここでは、まるで水を吸いとるスポンジのように何もかも吸収してしまう純真無垢な、それだけに大人の鏡でもある子ども、そのなかの乙女たちに焦点をあて彼女たちの戦争体験を何回かに分けて紹介する。

第1部 昭和18年八重高女生の日記

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日記は同年で終わっている。担任の泊先生が軍隊入営のために学校を去ることになったからである。宮里さんは日記帳を泊先生の武運長久を祈って記念に贈った。
その日記帳が昭和56年(1981)、38年ぶりに宮里さんの手元に戻ってきた。泊先生は入営の時に日記帳を取り上げられた。それを当時の隊長が大切に保管していて泊先生の住所をつきとめ連絡、泊先生が宮里さんに電話で知らせてきたのである。そのときのことを宮里さんは次のように書いている。

 


八重山高等女学校1年当時の宮良テツさん

――瞬間、私は驚きと喜びで返すことばを知らなかった。戦時中のことが一瞬頭をよぎる。兵舎と化した学び舎、兵営と化した校庭が鮮やかに目に写って通り過ぎた。「あ、あの日記ですか、女学校の一年の時の……」(略)昭和十八年といえば、非常時。「一億一心、進め一億火の玉だ。欲しがりません勝つまでは」と、戦時体制化の真っ只中で女学校に入学した私たちは、思い切り軍国主義教育を受けた。手旗信号、竹槍訓練、増産と教練の続く教育課程(略)思えば可憐な女学生。撃ちてしやまんの気概をもって滅私奉公を本分に学業に励むよりも、銃後をいかに守り抜くかが私たちに課せられた使命だった。――(『テッちゃん先生はろくおんてぇぷ』)
では、宮里さんの当時の日記から抜粋した文章を中心に、後の著作からの引用や本人の話を加えて、戦時中の女学生の暮らしを紹介しよう。
 

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「母に起こされて時計を見ると六時である。あヽやっとのことで間に合った。雨戸をあけ床を上げ、掃除をした。顔を洗ぎ、神棚礼拝した。今日は体操もまさつも宮城遥拝も家事手伝いも×である」
 


大麻を貼り付けた神棚。宮城家(宮里さんの実家)では一番座の西の鴨居に備え付けてあった神棚を、二礼二拍手一礼して毎朝礼拝した。【写真提供:沖縄県平和祈念資料館】

「母に起こされて時計を見ると六時である。あヽやっとのことで間に合った。雨戸をあけ床を上げ、掃除をした。顔を洗ぎ、神棚礼拝した。今日は体操もまさつも宮城遥拝も家事手伝いも×である」
朝は5時ごろには起きたようである。床を上げ、掃除、食事の準備をする母親の手伝いは当然のこと。体操も冷水摩擦も日課であった。宮城遥拝というのは、呼んで字のごとく、宮城(皇居)を遥かに拝むことである。皇居の方に向かい頭を下げて敬礼をした。
また、宮城家(宮里さんの実家)では、毎日、天照大神の札(大麻)を貼った神棚に大麻礼拝(神棚礼拝)をおこなった。宮城家の神棚は一番座の西側の鴨居にかかっていた。そこに向かって毎朝、二礼二拍手一礼をおこなう。特に父親(鉄雄さん)は熱心であった。
「面白い話があるのよ」と笑いながら宮里さんが父親のエピソードを話した。
「父親は農業会に勤めていて、沖縄に転勤になったときに、間借りをしていたんですが、そこにも大麻をもっていって、熱心にやっていた。あるとき、隣のおばさんが言った。なんで宮城のおとうさんは毎朝2匹蝿をころすか、と」
そんな熱心な父親が落胆するときがやってくる。
「その父も、明治神宮がやられたと聞いたときに、もうだめだと言った。神の国と言って明治神宮がやられたんではもうおしまいだと、そう言ったんですよ。あの頃までは信じていた。神の国…」。今では考えられない話である。
 

二列縦隊

「今日は大詔奉戴日である。六時までに竹槍をもって学校に集合する様にとの昨日お伝へがあった。今日は思ったより早く起きた。顔を洗って居るところへ宮平藤さん上里靖子さん盛山悦子さんがさそいに来た。ブルーマをつけ竹槍をもって学校へ行こうとすると二年生の黒島照さんに門でぴたりと会った。私達四人は、黒島朝さん照さんの二人をさそい、又吉カズさんをさそった。だがカズさんはもう行ったと言ふ。私達七人は歌を歌って二列に並び、元気よく登校した…」
 
大詔奉戴日というのは、大東亜戦争開戦の日の詔勅にちなんで定められた毎月8日のことである。開戦の翌月の昭和17年1月8日から行われた。学校では国旗掲揚、君が代斉唱、勅語奉読、宮城遥拝などが行われた。「大詔奉戴日の歌」というのもあったようである。
右の日記のつづきは、学校へ着いてみんなが集まったところで「勝ち抜く誓い」を朗誦し、竹槍訓練をやり、桃林寺の隣の権現堂に「ワッショイワッショイのかけ声も勇ましく」参拝し、解散。午後から再び登校。「一時間は大詔の奉読式を上げた」と記している。
「勝ち抜く誓い」の詩は次の通り。
みたみわれ、大君にすべてを捧げまつ らん。
みたみわれ、すめらみくにを護りぬか ん。
みたみわれ、力のかぎり働きぬかん。
みたみわれ、正しく明るく生きぬかん。
みたみわれ、この大みいくさに勝ちぬ かん。
「みたみわれ、というのは、天皇の民である私、という意味ですよ」と宮里さんが教えてくれた。
また、日記文中、二列に並んで登校する場面がある。
「当時は暁天動員といって、朝早く学校へ行った。学校に行く時、二人以上は必ず二列縦隊。先頭の右側の人が号令をかける。例えば兵隊さんの偉い人が向こうに見えると、歩調を取れー! と号令をかける。行き交うときに、おはようございますとは言わない。頭ァー右! と言って、一斉に右を向いて、相手を見る。相手は手を上げて敬礼をする。学校の校門に入る時にもね、歩調を取れェー、右向け、止まれ! といったら、横隊になりますね、そして校門に礼をする。職員室の前に来ると面白いですよ。校門の左側が職員室でしたから、窓のほうに来ると、左向けー、止まれ! 礼! おはようございます! とあいさつ」をしたという。当時の八重山高等女学校の敷地は現在の八重山高校である。
「当時は左側通行だったんでないですかね。二人以上歩く時は必ず二列縦隊。飛行場の作業に行く時も二列縦隊、飛行場に入る時にキレイに歩調を取って足並みそろえて入っていくんです。歩調を取れ!と号令をかけて、前ヘェー進め! 左足から、イチ、ニ、イチ、ニ……。そんなふうに叩き込まれたから、今、運動会なんかで、足がバラバラだと、私たち気持ち悪くなるんですよ」と宮里さんは苦笑する。
 

制服・髪型・手提げカバン

「教室へ入ると先生が、明日から冬制服をつけてもよいと云はれて、皆は大へん喜んで居る。それから少時はみんなで休んで家へ帰った。もう電燈もついて居る。夕はんをいただき、制服を取り出してつけてみた。明日の来るのが待遠しくてならなかった」
 


冬の制服姿で集う八重山高等女学校生。写真は西原マツ先生送別記念。(八重山高校『創立45周年記念誌』より)

の日記である。
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「ランドセルは小学2年ごろまで。3年生になると上級生になったふりして、手提げカバン。高女でも手提げカバン。女学校に入った時は父母が那覇に行っていて、那覇からキレイな手提げカバンを送ってくれて、それが印象的ですね」

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「昼食の時限に みたみわれ を黒板に書いてみんなにうつさせた。そこへ村山先生がこられたので食前のことばをとなへ、いただいた」
 
女学校では昼食は家に帰らず弁当持参であった。
「弁当は、入学当初はお米。おいしい弁当ですよ。そのとき、黄色い沢庵が高級弁当の象徴。それが入っている家はウヤキヤー(金持ち)でしたね。おかずを交換しながら食べた。小学校は弁当ないですから、弁当が楽しい時間。弁当を持っていくことが誇りのひとつでした。食事をする時には祝詞をささげた。かけまくもかしこき豊葦原の瑞穂の国のことはじめて……、なんのかんの言って、ご飯のありがたさを称えて、いただきます、と」
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「〈海ゆかば〉は戦争に行く人がうたう歌、〈みたみわれ〉は銃後の人の歌」と宮里さん。
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「ほんとにそのように叩き込まれましたね」
 

竹槍訓練

「自習していると、カラン~と鐘がなった。朝会場へ集合し、泊先生に其の日の人員を報告した。体操をし、朝会を終へて教室へ入った。一時間目数学、二時間目家事、三時間目音楽、四時間目図画。各々の時間が終へて昼食である。今日は何だか昼時間が早い様だ。皆と一緒におべんとうをいただき、その後はお話や色々な歌を歌って遊んだ。少時遊んでいると、午後からの授業を知らせる鐘が鳴った。五時間目は修練であった。六時間目は農業であった…」
 
当時の学校の授業には、修練、農業などの、今では見られない科目があった。農業の時間には校舎の北にあった運動場の一角の畑に野菜などを植えさせられた。「食料が不足するから、増産のためだと」。日記によると、作業の時間に、馬糞拾いなどもおこなっている。道に落ちている乾いた馬糞を拾ってきて肥料として学校の畑に入れるのである。修練の時間にはバケツリレーなどの防空演習、竹槍訓練、手旗信号などをやった。

「わら人形を、突いた瞬間抜きなさいと教えられた。なぜなら、人間の体は突かれたら締まるから、瞬間に抜けと。竹槍は1メートル50くらいの竹を20~30センチくらい斜めに切って、火にあぶって、蝋を塗って、…まったく原始時代」
英語は敵国語というので英語の授業は昭和19年には廃止になった。
 

運動会とブルマー

「それから女子青年体操をした。悪いところは何べんも何べんもくり返してれんしふした。其の後ブルーマに着かえ、校長先生と共にダンスをれんしふした。それがすんで泊先生より駐蒙軍の歌のゆうぎをおしへてもらった。私は大好きである。(略)紅白の防空えんしふをした。何べんしても赤は負けた。其の後記念運動場でれんしふした。つな引もした…」
 


第1回運動会での産業体操。「…朝だ夜明けだ輝く希望、日本良い国仰げよ天地、曲げよ伸ばせよ我が腕…」の歌にのせて。(八重山高校『創立45周年記念誌』より)

運動会前日の日記である。
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運動会の種目には産業体操などというのもあったという。
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ほかに当時の運動会にどういう種目があったか、高女のものではないが、石垣国民学校(戦時中は小学校の名称は国民学校となった)の昭和18年のプログラムから今では珍しいものをあげると、国民体操、手旗信号、2年男女の遊戯「兵隊さん、うさぎ、軍艦」、5・6年男の中隊教練、高等科男の銃剣術…などが見える。ちなみに、当時は運動会とはいわず、「秋季練成大会」といった。
ブルマーは当時の女学生の必需品であった。竹槍訓練、手旗信号などの教練のときも、ダンスや体操のときもブルマーであった。
「短パンでなく襞のある、当時の女学生はこれくらいしかおしゃれできないですから、襞が細かくて多いほどこれを誇りにして、水を打って、ゴザの下に敷いて綺麗に寝敷をしたものです」
 

映画見学

「今晩は映画見学と云われるが早いか皆はワッと大声を上げた。そして足もかるがる我が家へと急いだ。すぐごはんをいたヾき、少時勉強し、十銭を母からもらって上里さんをさそい映画館へ行った。いくらしても映画は始まらない。長い間ガヤガヤ話しているとやがてベルがなった。皆はきん張した。第一回目は日本ニュース、それから忠臣蔵(天の巻)をし、又日本ニュースにうつった。これは山本元帥の面影を偲ぶものであった。それがすんで又忠臣蔵にうつった。大へん面白く又なつかしくもあった」
 
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「映画見学で覚えているのは、将軍と参謀と兵という…、そのときの言葉は、あのときの優等生の言葉ですかね。飯は食うものと思うべからず、夜は寝るものと思うべからず、道は歩くものと思うべからず…。映画見学の後、素晴らしい言葉だと教えられた。なるほど、道なき道を歩いて、夜も寝ずに、飯も食わずに、国のためにやりなさいと、まことにあの時代ですが、誰も疑問にも思わない。反発も無い。その通りと。私たちはだれも文句言いませんでした」
 

軍神・大舛大尉

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大舛松市は大正6年(1917)与那国島生まれ。県立一中から陸軍士官学校を卒業後、ガダルカナルで壮烈な戦死を遂げ、死後、中尉から大尉に昇進、上聞(天皇への報告)に達して、一躍有名になった。沖縄の英雄となり当時は「軍神・大舛大尉に続け」と「大舛大尉の歌」も歌われた。
「教育勅語は小学校の時に暗唱暗記させられ、女学校のときはもっぱら軍人勅諭、五か条の御誓文を言わされましたね。ひとつ、軍人は忠節を尽くすを本分とすべし。ひとつ、軍人は礼儀を正しくすべし。…信義を重んずべし、質素を旨とすべし……。今はどうかと思うけど、あの時はあたり前」


教育勅語。国へ忠孝、親へ孝行、夫婦和合、事あらば国のために戦おうなどと呼びかけた天皇のことば。小学生から暗記させられた。【写真提供:八重山平和祈念館】

宮里さんは、当時学校で「興亜部員」といって慰問帳などをとりまとめる係でもあった。
宮里テツさんは13歳の少女の頃の自分の日記を改めて読んでみて次のように書いている。
「日記を通して感じることは素直であったということである。まじめ、素直、が教育の根っこであった感を深くする。当時の学生の本分を、皇国の盾となることだと自負し、いったん、事あらば国に殉ずることに何のためらいも、おそれもなかった少女は見事に軍国主義教育の優等生として成長していった愛らしくも頼もしい決意のほどがうかがいしれる。そのころまでは、島も戦いに犯されることなく、戦時中とはいえ、不自由の中にも家庭の団らんがあった」(『テッちゃん先生はろくおんてぇぷ』)
 

第2部 聞き書き 昭和19年学徒動員はじまる

昭和19年からはほとんど勉強というのがなかったんですね。毎日学校に竹槍を持っていく。カバンの代わりに救急袋。その中には、三角巾、ちょっとした消毒薬、骨折した時の副木を2、3本入れて、カバンの代わりに朝晩肌身離さず。
布の切れ端をもってきて自分で縫って、肩掛けの紐をつけて、真ん中に赤十字のマークをつけて、どういうふうに集めたのか覚えていませんが、消毒薬とか入れて、毎日これを持って行ったんですよ。
飛行場の作業も、これを持って、鍬を担いで。1週間、中学校と女学校が交互で飛行場つくりに行った。今の空港の滑走路の基礎は私たちが作ったんですよ。
白保の飛行場では、滑走路に真っ白い石灰を撒かされたんですよ。私たちは子どもでしたが、あら、おかしいね、真っ白だったら上空からはっきり見えるのにね、と誰言うとなく言っていたんですよ。1メートルくらいのローラーをか弱い女学生がひとりは引っ張って、ひとりは押して、均していったんですよ。
原田組という会社が請け負っていたということを聞きましたが、原田組の社長がじつはスパイだったらしいよ、と私たちのあいだで広まった。やっぱり事実だったはずよ、誰が考えても上空から見えるのにね、とぶつぶつ言いながら、あの頃はそうとう打ち込まれた軍国少女でしたから、欲しがりません勝つまでは、勝つよねえ、と言いながら毎日この作業をやったんです。
後日、そこの石灰をみんな掘り返して、30センチ四方の芝生ならぬ、刈り取ったあとの茅の土の付いたままのものを30センチ四方くらいに鍬できれいに切り取って、厚さ10センチくらいですよね、モッコに入れて持って行って、滑走路に敷き詰めて、ああキレイだね、と。これが私たちの勉強でしたよ。
19年の10月10日が那覇大空襲、2日後の12日が石垣島だったんですよ。その日は私たちは飛行場の当番ではなくて、中学校が当番だった。
ちょうどその時刻、私たちは学校の運動場で東から西に向かって校長が訓話をなさっているのを聞いたんですよ。
「日本の国は連戦連勝、あんたなんかも頑張っているから国は絶対に勝ちます」
そのあとなんと言ったかというと「掌を見なさい。マメができているでしょう。マメが増えれば増えるほど、日本の国は強くなって勝つんだ」とそういうことをおしゃっていた。
その時に、4機の戦闘機が来た。ちょうどその朝、友軍の戦闘機が訓練をやってみせるので住民は見なさい、とそういうことが言われていたんですよ。私たちは演習と思ってしばらくみていたんですね。
あのころ学校の裏の松林に機関砲陣地があったんですよ。そこをめがけて、急降下してくるのを、勇ましいなあと見ていたら、ババーッとやりだした。新川の亀谷商店のおとうさんが海軍上がりで、体育の先生をしてらした。校長の隣に立っていたその先生が、校長、これおかしいですよ。友軍機ではないみたいですよ、と。私たちが見ても日の丸に見えたんですよ、あの飛行機。
そういっているうちに、ピューン、ドドーンとやるんですね。そしたら、亀谷先生は子どものことでは大変必死でしたから、「退避ー」といわれたんですよ。しかし私たちは退避どころか、救急袋をもってますから、私たちはそのまま配置された病院にまっすぐ行ったんですよ。私は信賢病院に。
そのころには空中戦は終わっていたんですが、井上商店のそばを通ると、たくさんのおじさんおばさんが出てきて空を見上げているんですよ。「おじさん、おばさん、あれは友軍機ではないですよ、敵機ですよ、危ないですよ」と声をかけながら病院へ行ったんですが、その日が石垣島の初空襲でした。
その日以後、朝8時ごろ海岸線にグーングーンと重たい爆音が聞こえるんですね。それはB29の偵察で、そのあと、艦載機がやってきて、街の上には来なかったんですが、海岸線に威嚇射撃をやってみたり、それが毎日のようにつづいて、それから夕方になると、艦砲射撃。
ボンと発射する音が聞こえて、それが島に反響してポンと音がするんですよ。そして、ピューウという音がして弾の流れが弧を描いていく時にピュウーと明かりが見える。音が聞こえて、ドドーンと着弾する。そのように聞こえましたね。
 

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八月十五日は父が亡くなってひと月目。ラジオも新聞もなく、情報が極端に統制されていた時代。社会のことや戦況など知ってどうする。今はただ母子三人空襲におびやかされず暮らすことができたらと思うだけで、勝敗など気にもとめないほど心はまいっていた。
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「そう、よかったね」と、ただ一言。負けてよかったね、というのではない。母も父と同じく勝利を信じ、我が愛し子を国に捧げ、銃後の守りをおこたらなかった。大日本帝国婦人会員のひとりであった。その母が心から喜んでくれたのだ。敗けてくやしいという心の底で、母として戦争をにくみ、愛し子を死の淵へ追いやった戦争に憤りを感じてはき出すように言った一言であったと今も信じている。
それにもまして母は、これから貧しくとも平和に暮らすことができるという平和のみを願って言ったよろこびのことばだったにちがいない。空襲におびやかされずにすむ。母子離れずに暮らすことができるという平凡な母の願いだったのである。(略)
その日は忘れもしないカラッと晴れた日だった。弟のいつにない大きな声。
「ねえさん、早く早く」声のする方へそのまま飛んで行った私。あゝ、さっき頭の中をかすめたことが現実になるとは。
「おかあさん!」大声で叫んだ。ありったけの声をあげて叫んだら、じーっと私を見つめた目から大つぶの涙が次から次へ頬をつたわってくる。しかし、母のひとみは動かない。しきりに何かを話しているようだが、それが声にならない。気をつけてみるとアゴがうごかなくなっているではないか。
一点をみつめたままのひとみは涙のまま、この世の光を失ってしまった。
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